『その女は エリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」』(Ⅰ列王記17:24)
今日は、「信仰による歩み。」です。
聖句は飢饉の時、エリヤの世話をしていたやもめの息子が死に、エリヤの祈りによって生き返った時の言葉です。
ツァレファテのやもめと息子は、飢饉のために一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけの状態に追い込まれました。
その時エリヤの「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持ってきなさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」 彼女はエリヤのことばのとおりにしました。エリヤの告げたとおりかめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったのです。
その後、やもめの息子が病になり、ついに息を引き取りました。彼女はエリヤに言いました。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
エリヤはその子を受け取り、「主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」と言って、彼は三度その子の上に身を伏せて、「私の神、主よ。この子のいのちをこの子のうちに返してください。」と祈りました。主がエリヤの祈りを聞かれたので、その子は生き返りました。そして、今日の聖句へと続きます。
今日の聖句のみことばは、かめの粉が尽きず、つぼの油がなくならないときに言うべきでした。しかし、かめもつぼも、前と同じく使い、粉が手に入るときにはかめに入れ、油が手に入るときにはつぼに足していたのでしょう。それで、粉が尽きず、油がなくならないのは、神によるとは思えなかったのです。
私たちも同じです。朝太陽が昇っても、普通のことで、これは自然だとかたづけます。月も星もすべてです。しかし、交通事故から間一髪で助かった時は、これは神によると言って喜びます。
しかし、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。聖書はすべて、神の霊感によって書かれたものです。実行してみましょう。そのとき「聖書のみことばが真実であることを知りました。」と言えるでしょう。ハレルヤ。
『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』(箴言3:6)
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