『またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。』
(創世記31:49)
ラバンとヤコブは平和の契約を結びます。その場所はミツパ、「見張る場所」と呼ばれました。ラバンはヤコブを疑い、自分が見ていなくてもヤコブが娘たちを悪く扱わないか見張ってくださるよう、神さまにに言ったのでこう名付けられました。
「主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張って」(箴言15:3)おられます。しかし、ラバンが願うごとく、神さまは人を疑い、見張っておられるのでしょうか。
神さまは、預言者エゼキエルにイスラエルの見張り人の働きを与えられました。それはイスラエルに警告を与える働きです。
サッカーでは警告のカードが溜まると退場です。しかし、主の警告は、罪を人の前に明らかにして退場させるのではありません。かえって、悔い改めるように促すものです。
悔い改めは方向転換です。退場したり、オウンゴールをしたりしないように、ゴールすべき方向に人を向き直させるのです。
神に背を向けた私たちのために、イエスさまはいのちを捧げてくださいました。主のいのちは私たちの罪の代価です。この代価により、神と人の間にあった敵意は取り除かれました。
イエスさまは、私たちのゴールである天の神さまへの道を開いてくださったのです。そして、このいのちの道に進むように、悔い改めという方向転換に聖霊さまが導かれます。
ヤコブたちが作った石の柱、石塚は契約のしるしだけでなく、民族の地境でもあります。ミツパを境に文化が変わります。神の国には、ラバンのように敵意や疑いによって誰かを見張る文化はありません。愛なる神さまに見張られ、道をそれることから守られ、いのちの道を歩むよう導かれるのが、神の国です。
約束の地にゴールするまで、神さまは愛の目でヤコブたちを確かに見張られました。さらに、最終的な目的地である天へ凱旋するときまで、神さまは彼らの地上の旅路を見張られました。
イエスさまは愛なる羊飼いです。私たちをいつも見張り、緑の牧場に導いてくださいます。たとえ死の谷の影を歩むときにも、主は共におられます。そして、敵の前でも私たちのために主が食事を整えてくださるのです。
主はあなたの人生の旅路を見張り、勇敢に走り抜かせてくださいます。主の導きに信頼し、前進し続けましょう。
『わたしは近くにいれば、神なのか。―主の御告げ。― 遠くにいれば、神ではないのか。人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。―主の御告げ。― 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。―主の御告げ。― 』(箴言3:5-6)
(文責:朋子)
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