『ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。』(創世記32:2)
マハナイムで神の軍勢がヤコブの前に現れました。マハナイムはヘブライ語のマハネ(宿営)の双数形です。双数形は目や手のように自然界で対をなすものを数える特別な形です。神の陣営は気ままに現れる助けでなく、ヤコブの宿営と対をなして存在する助けです。これほど心強い助けが他にあるでしょうか。
しかし、ヤコブは恐れます。兄エサウに使いを送るも、エサウから赦しの知らせはなく、400人の人とエサウが来るという知らせがきます。ヤコブの心に恐れと不安が入ります。
途端にヤコブは保険をかけました。自分の宿営を二つに分け、どちらかが打たれても、一つは大丈夫なようにしました。さらに、一日かけてエサウをなだめるための贈り物を用意します。
自分の弱さを覚えるとき、恐れることは当然の感情です。アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べた後、裸であることに気づき恐れました。しかし、自分の罪を覚え、すぐそばにおられる神さまに助けを求めることができませんでした。
しかし、ダビデは違いました。彼は強い戦士として讃えられた一方、命を狙われ続けます。主君サウルに妬まれて追われ、王になった後も息子アブシャロムに王位を追われ、逃亡を余儀なくされたのです。それでもダビデは恐れなかったのです。
なぜなら、「それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。」(詩篇 27:5)という告白の通り、ダビデは父なる神さまの元にいつも逃げ込み、平安を受け取っていました。
宗教と呼ばれるものの多くは、恐れを利用します。不幸の原因を本人や先祖の行いに関連づけて、搾取します。そして、人の心と行動、人生を恐れで縛り、コントロールするのです。
しかし、イエスさまは違います。ご自分が十字架にかかり、いのちを捧げられました。この犠牲は、私たちの罪を完全に許すためです。人が最初に覚えた裸の姿、弱くて恥に塗れた姿を主が義の衣で覆い、恐れも恥も取り去ってくださったのです。
さらに、私たちの主は人間に与えた救いの見返りを求めません。羊のように弱く臆病な私たちを引き寄せて懐に抱き、優しく導く羊飼いと主はなってくださいました。
主は私たちを恐れで縛りません。私たちもダビデのように主の御そばで過ごす親密な時間を大切にし、平安を受け取りましょう。そして、教会が悩む人の隠れ場として、人々がイエスさまと出会い、恐れから解放される場所とされますよう願います。
『主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。』(イザヤ40:11)
(文責:朋子)
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