『わたしの儀人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』(へブル10:38)
私たちがキリストを迎え入れれば、信仰の目が開けられ、この世の流れに押し流されないで生きていくことができます。
モーセは若いとき、自分の力でイスラエルを救う計画を立てて、エジプトの知識と知恵に富み、文武を兼ね備えた人物となりました。しかし、彼は失敗し、荒野に逃げていかなければならなくなったのです。野望の宮殿から絶望の荒野へと転落していくのです。
ある日、モーセはホレブの山で羊を飼っているとき、柴が燃えているのを見ました。しかし、その柴は焼け尽きなかったのです。不思議に思ったモーセがそこに近づくと、神様がその燃える柴の中から語り掛けられたのです。
『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らを虐げているその虐げを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』(出エジプト3:5-10)
すると急に、モーセの心の目が開かれ始めたのです。前に想像もできなかった人生の計画が、神様によって明らかにされたのです。それは言葉では表現できないほどの人生の驚異でした。
既にあきらめていた若いときの人間的な野望が今、神様によって新しくされ、彼に現れたのです。
そして、私たちは今も同じ変化を体験することができます。人はこの世にあって、この世の資源を頼って、それぞれの野望に生きています。そのような中でイエス様を迎え入れると、心の目が開かれるようになり。霊の世界が開かれてきます。そして、神様を頼るようになり始めるのです。
モーセは信仰の世界を心の目で見て、神様の力により頼み、かたくなな独裁者、パロからついに300万ものイスラエルの民を救いだしたのです。これは人間の力ではできません。
モーセの心の目が開かれていたので、民が恨み、また、様々な苦難が起きても揺るがない信仰をもって、民を導くことができました。私たちも心の目が開かれれば、信仰を堅くして神様が供えられた世界に向かって、力づよく歩んでいくことができるのです。ハレルヤ。
『わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』
(イザヤ55:11)
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