『私は、あなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなた方の父の神が私に告げて、『あなたはヤコブとことの善悪を論じないように気をつけよ。』と言われた。』
(創世記31:29)
ヤコブはラバンを欺き逃げました。ラバンはそれに気づき、彼らを追いかけます。しかし、ヤコブに追いつく前夜に「ヤコブと善悪を論じあってはならない」と主がラバンに命じられました。このとりなしによりヤコブたちの命は守られました。
この天地は神の基準によって創造されました。愛なる神のかたちに創造された人が、神の義と愛によりこの地を治めるためです。しかし、善悪の知識の実を食べました。人が自分を神とするようになり、善悪を論じ合うようになったのです。
人間の定める善悪の基準は個人の感情、利益、さらには欲望が根拠です。そして、力の強い者の意見が通るようになります。
善とは神に属するものです。悪は善の反対、神に属さないものです。モーセの律法は人に神さまの基準を教えました。人が神に属し続けるために守ることを示したのです。
しかし、人は律法を守ることができず、かえって罪の意識を与えることになりました。ただ一人、イエスさまだけが律法を成就、完全に守られました。そのお方が十字架上で捧げた罪のないご自分のいのちによって、全ての罪を裁きました。その裁きは、全ての罪の代価を支払い、赦すものです。
「◯○するから祈りを聞いてくだい」と自分で願いの代価を決めて誓いをするのが人間の価値観です。しかし、イエスさまは決して誓ってはいけませんと教えておられます(マタイ5:34)。
恐ろしいことに、ヤコブはラケルの盗みを知らず、人のいのちをかけて誓いをしました。このように人は善悪の判断どころか、自分の家庭さえも治められない弱さをもった存在です。
ですから、イエスさまは私たちに「はい」か「いいえ」だけ言いなさいと教えられました。罪に定められないためです。私たちの救いもそうです。十字架にかかり死んで三日目によみがえったイエスさまが私たちの罪を贖ってくださった、このことを信じますかという導きに「はい」と答えて救われたのです。
私たちは善悪を論じるのではなく、神の言葉に「はい」か「いいえ」で答えましょう。そして、父なる神の計画に従い、愛する花嫁のため、十字架に従い正しく裁いてくださったイエスさまに委ねましょう。主に信頼するものを主は決して見捨てず、正しい道に導き続けてくださいます。
『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』(箴言3:5-6)
(文責:朋子)
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