『ラケルは自分がヤコブに子を産んでないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」』(創世記30:1)
子を与えられ、レアが主をほめたたえた後も争いが起こります。二人の妻は女奴隷を夫に与えたり、取引をしたりし、子を授かることを競うのです。神の主権や夫の愛を求めること以上に、子を産み所有することが彼女たちの喜び、誇りでした。
先週はペンテコステでした。イエスさまが約束された通り、エルサレムで祈る人々に聖霊が臨み、異言を語りました。このペンテコステは超自然的な体験で終わらなかったのです。
ペテロは福音を語り、三千人もの人々が救われ、不思議なわざと証の奇跡が起こります。そして、信じた人々は資産や持ち物を売っては分配し、共に生活をしました。主から受けた恵みや賜物を、自分を誇るために使わないのです。みながともに主を礼拝し、霊も肉も生きるようにと恵みを分け合ったのです。
しかし、5000人の給食の場面では、民に食料を買ってあげなさいと言われるイエスさまのことばを弟子たちは退けています。食事代200デナリ(200日分の労働賃金)は大金です。しかし、弟子たちはイエスさまに奇跡を求めることも、自分が持っているわずかなものを捧げることさえもしませんでした。
そのような中、イエスさまは奇跡を起こされます。12のカゴに食物が余るほどに民衆は満たされました。その元となったのは、弟子ではなく少年が捧げた5つのパンと2匹の魚でした。
しかし、聖霊を受けた弟子たちは変わります。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という主の戒めを実行したのです。
彼らの努力の賜物ではありません。彼らは聖霊のバプテスマを受け、キリストと一つのからだとされました。彼らを導くのは、父なる神とキリストの心を教える聖霊さまです。そして、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く初代教会が起こります。
主を信じ聖霊のバプテスマを受けた私たちも、主の実を実らせるために主が選ばれた器です。主は不妊のラケルの願いをも聞き、ヨセフを与えました。争いの中で生まれたヤコブの子らでしたが、主の約束どおりイスラエルの部族の基となります。
教会は御霊によって私たちが一つとされた主のからだです。御霊は一つです。初代教会同様、教会は主の恵みを分け合い、人を生かします。喜びも悲しみも共にする場所です。しかし、努力ではできません。聖霊さまを歓迎しましょう。私たちがお互いを生かし合う良い実を、聖霊さまが実らせてくださいます。
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』(ガラテヤ5:22−23)
(文責:朋子)
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