『朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」』(創世記29:25)
ベテルで神さまと出会い、アブラハム契約の継承者としての確信を受け取ったヤコブは足取り軽くラバンの元に向かいます。そして、姿も顔立ちも美しいラケルと出会います。その場面は母リベカが父のしもべと出会った風景とも似ています。
ヤコブは神に聞くこともせず、ラケルを妻とするためラバンに仕えます。しかし、ヤコブ、ラバン、レアとラケルが各々自分の愛を求めた結果、家庭には争いが生まれます。
しかし、ヤコブの二人の妻、二人の女奴隷が産んだ12人の息子たちはイスラエル民族の基となります。「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」とベテルで約束した通り、主は未熟でかたくななヤコブさえも見捨てず、祝福の計画のために用いられたのです。
私たちもヤコブのように神さまと出会った喜びから、足取り軽く信仰生活を送ろうとします。しかし、何を祝福のしるしとして求め、何を証としているでしょうか。
スカルの井戸の女は結婚に5回失敗し、夫でない男性に養われているときイエスさまに出会いました。彼女は運命の夫が彼女を満たすと考えました。しかし、主は「わたしを信じ、わたしが与える水によって生かされなさい」と教えられました。
イエスさまは十字架でご自分のいのちを代価とし、神と新しい契約を結ばれました。キリストの内にあるなら古いものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。主を信じるものは罪や過去の失敗を洗い流され、主と共に生きる人生を与えられるのです。
そして、イエスを救い主と信じるものに、私たちの渇きを完全に満たす泉がしるしとして私たちの内側に与えられます。その泉こそ、イエスさまが神に願い、神が与えてくださったもう一人の助け主 聖霊さまです。
たとえ神と出会っても、人は井戸のような目に見える水源に満たしを求める弱い存在です。そして、感情的な愛の追求をしたヤコブやスカルの女のように、平安のない人生に渇くのです。
しかし、イエスさまが十字架で示された愛の賜物である聖霊さまは、私たちを内側からきよめて生かします。聖霊さまが与える水を飲みましょう。いのちの水が川となってあなたから流れ出、あなたの周りの人をも生かす祝福の計画に用いられます。
『私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。』(1ヨハネ4:15)
(文責:朋子)
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