『だからわが子よ。今、私の言うことを聞いて、すぐ立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。兄さんの憤りがおさまるまで、しばらくラバンのところにとどまっていなさい。』(創世記27:43−44)
ウクライナからの避難民を日本で受け入れ始めました。東日本大震災でも多くの方が避難されました。被害にあわれた方の避難を助けることは当然です。しかし、ヤコブは長子の祝福を奪いエサウの怒りを買いました。自業自得の理由で生命の危機に陥ったヤコブが逃れることを、主はお許しになったのです。
カナンの地に入る際、イスラエルの民は領土を分配しました。神さまはレビ人の町に「逃れの町」を六つ作らせました。殺意なく人を殺してしまった人が逃れる場所です。正しく裁かれるために、復讐による殺人が繰り返されないために、神さまは逃れる地を与えてくださったのです。
エサウは祝福を失ってようやくその価値に気づきました。リベカ、エサウ、ヤコブ、そしてイサクでさえ長子の祝福の継承を軽んじていたでしょう。この油断が兄弟で血を流す危機をもたらしました。しかし、「わからずに」行動した彼らのいのちを守ろうと神さまはヤコブの避難をお許しになりました。
逃れの町に入るには、殺人を犯した経緯を町の入り口で説明します。そして、その町の大祭司が死ぬとき、大祭司のいのちにより殺人の罪を贖われ、自分の町に戻ることができます。
人は神ではありません。しかし、「神のようになりたい」という罪の性質が神なし、つまり愛のない生き方を選択させます。気付かぬ内に人を傷つけ、傷つけた人の憎しみを買うのです。回復不可能になるまで関係が壊れる場合もあります。
イエス・キリストこそ永遠の逃れの町です。大祭司であるイエスさまが十字架で捧げられたいのちが、すべての罪の代価です。知らずに犯した罪でさえ、主に告白するなら、正しい裁きを与え、罪の赦しを受け取らせてくださいます。そして、努力では神のように誰かを愛することはできません。しかし、石膏の壺を割り香油をイエスさまの足に注ぎかけた女性のように、多くを許された人が多く愛することができるのです。
罪を軽んじたヤコブもおじラバンのもとで、自分の罪の性質と向き合い、祝福を奪いとる性質から仕える性質に変えられていきます。あなた自身のためにイエスさまの元に逃れましょう。主は何度でもあなたを受け入れて救ってくださいます。
『モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
(ヨハネ3:14−15)
(文責:朋子)
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