『イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。』(創世記26:22)
ゲラルからゲラルの谷間、ベエル・シェバとイサクたちは移動を続けます。土地を得たからではなく、争いを避けてアビメレクに追われた結果でした。祝福された生き方とは思えません。
しかし、神さまに対しても、自分を苦しめる人に対しても柔和な生き方を貫くイサクに、主の祝福は注がれ続けるのです。
ベエル・シェバに上ったイサクに神さまは現れ、「恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。」と語られました。そして、イサクは祭壇をもうけ、主の御名によって祈りました。すると、イサクには「神がともにおられる」しるしが与えられます。新たな井戸と、アビメレクとの盟約です。
この世には争いが多くあります。自分の欲望を満たすために他人の井戸を奪い、豊かになる人を妬んで自分の視界から追いやるのです。そして、自分に得られる利益がなければ、共に戦うことなく「他人」の争いとして見過ごされてしまいます。
地上で初めての殺人は、カインとアベルという兄弟の間で起こりました。弟への妬みによって、兄により血が流されたのです。神さまはこの殺人を見過ごされませんでした。神さま「アベルはどこにいるのか」と問われました。アベルの血が主に向かって叫ぶ声に、神さまは応えられたのです。
次に生まれたエノシュは主の御名によって祈ることを始めました。神なしで自分の欲望を追い求める生き方ではなく、神の主権に従う神の国の生き方が、彼らを通して始まったのです。
かつて、アブラハムはベエル・シェバに柳の木を植えました。アビメレクとの盟約を与えた永遠の神を覚える信仰の証です。この木は砂漠でも良く育ちます。イサクはベエル・シェバでこの木を見たのではないでしょうか。イサクも父同様、アビメレクと盟約を結び、平和のうちに彼らを送り出しました。
悪者でさえ悔い改めて生きる事を望む神さまは、ひとり子イエスを十字架にかけられました。十字架の救いによって、完全なる平和が神と人の間に、人と人の間に与えられたのです。私たちがイエスさまの十字架を見上げるなら、主の平和が私たちの心に作られます。そして、平和を作るものとされるのです。
ベエル・シェバでは、絶望する者に神さまの救いの御手が与えらました。私たちも今別れ目に立っています。十字架を見上げ、イエスさまの御名によって祈りましょう。主は祈りを聞き、絶望の中に救いの御手を伸ばしてくださるお方です。
『またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。』(ヨハネ15:13)
(文責:朋子)
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