『彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン・オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。』(創世記35:18)
ヤコブたちは父イサクが待つヘブロンへと旅を続けます。妊娠中であったラケルはエフラタへ向かう途中で出産をします。非常な難産でラケルは命を落としてしまいます。
ラケルは死の直前、子をベン・オニ、私の苦しみの子と名付けます。しかし、ヤコブはベニヤミン、右手の子と名付けました。「右」ということばには、幸運や名誉の意味があります。
この時ヨセフはすでにエジプトに売られています。この出産により愛するラケルを失った現実だけを見れば、苦しみの子です。しかし、ベニヤミンはヤコブの慰めとなり、エジプトでヨセフとの再会する際のキーマンとなります。
さらに、ベニヤミンはイスラエル民族にとって「右手の子」となります。彼の子孫から、イスラエルの最初の王サウル、預言者エレミヤ、王妃エステルが生まれるのです。
また、彼は異邦人にとっても「右手の子」です。異邦人伝道に命を捧げた使徒パウロもベニヤミンの子孫です。
ベニヤミンはラケルがヨセフを産んだ時に、主に祈った実でした。ラケルは命を失いましたが、イスラエル国家の救い、全人類の救いのための一粒の麦となったのです。
悪口さえも法の規制が必要な程に、人は神から離れて肉の望むままに生きています。神から離れた罪の結果は死です。罪に支配され、自分の罪と罪過の中に死んでいます(エペソ2:1)。
しかし、イエスを信じるものは、新しくされます。(2コリ5:17)。なぜなら、イエス・キリストが十字架にかかり命を捨てて、全ての人を罪の奴隷から解放したからです。主を信じる私たちは、十字架で最も大きな苦しみを体験されたキリストにより、父なる神にとって幸いの子とされたのです。
そして、主を信じるものは、十字架で死に蘇ったキリストの死と復活を私たちも体験します。死とは古い自分を捨てることで、非常な苦しみです。しかし、御霊を受け新しくされます。そして、御霊によって実を結ぶのです。
福音は愚かで恥と思われる時代です。しかし、この世に妥協して信仰の旅路をやめることなく前進し続けましょう。苦しみは死で終わりません。私たちの内に生きておられる御霊が、最も幸いな宝であるいのちを与え続けてくださるからです。
『まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。』
(ヨハネ12:24)
(文責:朋子)
Comments