『エサウは、その妻たち、息子、娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れてほかの地へ行った。』
(創世記36:6)
イサクが亡くなり、ヤコブとエサウは共にイサクを葬りました。その後、ヤコブもエサウは繁栄し、共に暮らせなくなったため、エサウはヤコブから離れました。自分の財産を守るだけでなく、子孫に遺産を遺すためでもあります。
しかし、神の民から離れたエサウと子孫は、心も離れました。エサウはすでに異教の女性を妻にし、縁を結んでいました。セイルの地で彼らは増えますが、イスラエルに敵対していきます。幼な子のイエスさまを殺害しようとしたヘロデ王もエサウの子孫です。全く良い遺産を残すことができませんでした。
イスラエル王国を築き、救い主イエス・キリストを生み出したヤコブの家系と対照的な歩みをエサウとその子孫は送ります。
『この世と調子を合わせてはいけません』(ロマ12:2)の「調子を合わせる」の原語には、少なくとも同じ見かけになるという意味があります。エサウはまさに調子を合わせたのです。そして、子孫も神から離れ、祝福の道から外れていったのです。
ヤコブはエサウから長子の祝福を買い取り、神の祝福の継承者とされました。私たちクリスチャンは、長子であるイエスさまにより祝福の継承者とされました。それは、イエスさま自身が、その命を十字架で捧げ物として差し出し、主を信じるものを神の子と回復させる道を完成してくださったからです。
そして、私たちは後の継承者に、祝福のバトンをつなぐものでもあります。そのために主を礼拝することが大切です。この世と調子を合わせることは、神から離れたこの世と同じ姿になることです。しかし、礼拝するなら、礼拝する相手と同じ姿になります(詩篇135:18)。神に調子を合わせることとなるのです。
時に世に妥協しそうになることもあるでしょう。しかし、主を礼拝する度に、私たちの姿はこの世と同じ姿から、神に似たものの姿に回復されていきます。
さらに、礼拝は自分が何に価値を置いているかを明らかにします。子どもたちはまだ礼拝の意味がわからないかもしれません。しかし、大人が子どものように主を賛美する姿、礼拝を通して性質を変えられていく姿を見せることは、子どもたちにイエス・キリストに価値をおいて生きることの証となるのです。
礼拝は子どもたちへの祝福の継承に大きな影響を与えます。期待して毎週の礼拝を捧げていきましょう。
『神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。』(ローマ8:14) (文責:朋子)
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