『そうすれば、あなたがたは私たちとともに住み、この土地はあなたがたの前に開放されているのです。ここに住み、自由に行き来し、ここに土地を得てください。」』
(創世記34:10)
ヤコブはエサウと和解後、シェケムに留まったところ、族長ハモルの子シェケムに娘ディナが辱められる事件が起こります。
シェケムの父ハモルはヤコブに息子の行いを詫び、親戚関係を結ぼうと歩み寄ります。しかし、ディナの兄たちは怒り、最終的にはシェケムの男子を殺害し、財産を略奪しました。
肉の思いは神に敵対しています(ローマ8:7)。欲しいものを力ずくで奪うこと、騙して復讐することもどちらも悪です。ハモルの歩み寄りも、ヤコブの財産が目当てであったようです。問題解決どころか、肉の思いにはいのちと平安がありません。
しかし、問題を避けられた唯一の方法があります。それは、シェケムの地に留まらず、ベテルへの旅を続けることでした。
仮庵の祭りでは、イスラエルの民が40年間荒野で主に守られたことを覚えます。パロを拝むエジプトから、神はイスラエルを切り離しました。主はモーセを用いてイスラエルを方向転換させ、罪を見過ごし、約束の地への旅に連れ出しました。
荒野には家はおろか、水も食べ物もありません。しかし、主は全ての必要を満たされ続けました。この天からの守りと必要は、モーセ個人にではなく、民の宿営に与えられたのです。
私たちは神に背を向けることを罪と知り、方向転換して主に顔を向けました。イエス・キリストの流された血により、私たちは罪を見過ごされ、天への旅路を歩んでいます。しかし、旅路で歩む人生は、まるで荒野のようです。住む場所、水、食べ物、人間関係など、多くの恐れがやって来ます。
イスラエルの民を守った宿営は、神の臨在を象徴する契約の箱を囲みました。クリスチャンにとっての宿営は、神の臨在を中心に神の民が集う教会です。
私たちは妥協し神以外の拠り所を求めますが、そこに真のいのちと平安はありません。イスラエルの民は、共同体に属し生命を守られ、祭りを守ることでアイデンティティを守られました。教会に集い、いのちのパンであるみことばと渇きを潤す水である聖霊を受け、私たちは生かされます。そして、体をもって礼拝し、新しい神の子の生き方に変えられ続けるのです。
私たちの心と体は一つです。主はあなたを、体ごと教会に招いておられます。この招きに答えましょう。イスラエルの民を荒野で生かし、約束の地に導いた主の祝福が教会にあるのです。
『見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。』
(イザヤ12:2-3)
(文責:朋子)
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