『それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。』
(創世記35:2)
ヤコブが神さまのことばを軽んじてシェケムに留まったためにディナの事件が起こりました。しかし、主はまたしてもヤコブに現れベテルに上り主に礼拝するよう命じられました。
ヤコブは自分の家族と共にいる全ての者に、偶像を取り除くこと、身をきよめること、衣を着替えることを命じました。
人間にとって五感は物事の判断に重要な基準となります。しかし、その優先順位は文化によって異なります。創造主なる神さまは声により天地を創造し、人に声により進むべき道を示されます。主の声を「聞く」ことが聖書的に最も大切な基準です。
しかし、ギリシア的な基準では「見る」ことを最も大切にします。神の祝福の継承者であるヤコブでさえ、神の声を聞くことよりも、目に見える状況に心を奪われ右往左往し続けました。
偶像は目に見える拠り所として最たるものです。ラケルが盗み出したテラフィムはラバンに対する相続権利の証です。また、耳輪はお守りのようなものであると共に、遊牧民にとっては貴重な財産です。異国からヤコブについて来た家族や奴隷たちにとって特別な拠り所であったに違いありません。
しかし、彼らはヤコブとの旅路を通して神を体験し、創造主への信仰を与えられました。偶像を捨て、身をきよめ、衣を着替え、神の民として生きることを公にしました。イスラエルの民として一つとされ、諸国民の祝福の基となったのです。
神さまは神の民として祝福の基となる道を、今日も開いておられます。その唯一の道は、主イエスを信じることです。その人は罪を赦され、キリストを着て新しい人として生かされます。そして、洗礼を受け、神の民とされたことを宣言するのです。
教会は出身地、性別、世代も肉の目で見るならバラバラの集まりです。しかし、キリストについてのみことばを聞いて信仰が始まり、一人の主、一つの信仰、一つのバプテスマによって一つとされています。目には見えずとも、今も生きて語り、導いてくださる神だけを信頼して生きる神の民の共同体です。
終わりの時代には多くの患難があります。人の心は冷え切ってきます。しかし、教会は救い主イエスさまを礼拝し、主が十字架で示された惜しみない愛を証しする場所です。主から受けた祝福を全世界に惜しみなく流し出していきましょう。
『そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。』
(コロサイ3:11)
(文責:朋子)
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