『イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。』(創世記24:67)
燃えるような夕日の光に照らされて輝く花婿と花嫁が出会います。二人はイサクの母サラの天幕で新しい生活を始めました。リベカの存在は、愛する母サラを亡くしたイサクの慰めとなりました。
辞書によると、慰めとは「辛い気持ちを一時的に和らげるもの」と説明されています。しかし、聖書がいう慰めは少し違います。一時的でなく、和らげるだけでもなく、永遠に変わらない神によって死からいのちに移されることこそ主の慰めです。
洪水から救いに導いたノアは、慰めの子として聖書に登場します。堕落する時代で、彼は神の心にかなうただ一人の存在でした。彼は神のことばを受け取り、方舟を作り始めました。方舟は滅びに向かう地にあって、いのちを繋ぐ唯一の手段でした。そして、ノアと方舟に乗ったものは、洪水の中でもいのちを守られて新しい世代を生み出します。
方舟に乗った人々にとって、ノアは洪水からの救いを覚える存在でした。神さまにとっては、ノアは神の国を継承する残りの民として、御心にかなう存在でした。ノアは一時的な安らぎの存在ではなく、死からいのちに道を示す慰めの存在なのです。
同様に、イサクにとってリベカは、母を失った辛い気持ちを一時的に和らげるだけの存在で終わりません。サラの天幕を受け継いだリベカは、約束の子を産むという使命をも受け継いでいます。イサクはリベカを通して、自分がアブラハムの後継として神の祝福を継承することを確信したのです。
そして、イサクの子孫としてお生まれになるイエス・キリストこそ、永遠に変わらない、まことの慰めを与えるお方です。十字架で苦しみを受けられましたが、死に打ち勝ち三日目に蘇られました。そして、その苦しみによって、永遠のいのちという宝を、ご自分を信じる者に与えてくださったのです。
キリストと教会の関係は夫婦に象徴されます。夫であるキリストにより教会はアブラハムの祝福を継承し、地に流し出す基です。教会の姿は、神さまにとってのノアのように滅びゆくこの地にいのちを繋ぐ存在です、また、イサクにとってのリベカのように、神の子を産み出す存在です。
キリストの体の一部である私たち一人一人が、聖霊さまから力を受け、種をまくなら、聖霊さまが実らせてくださいます。収穫のときを期待し種をまき、収穫の日には喜び刈り取りましょう。
『荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。
荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。』(イザヤ40:3)
(文責:朋子)
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