『「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。』(イザヤ54:1)
今日は、「神様のみこころ。」がテーマです。
神様は、イザヤ53章でイエス様を預言して、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」と告げています。
この予言の750年後、イエス・キリストはこの世界に来られ、私たちの罪の身代わりに、ご自身を十字架につけ、神様と和解させてくださいました。これが神様のみこころです。
イザヤ53章に続いて、54章ですべての人々に対して、「子を産まない不妊の女よ。」と告げています。これは罪によって、神様と断絶した人間への呼びかけです。
神様が一方的に和解を告げ知らせ、いま神様は、神様を信じるすべての人と共にいてくださり、その家庭の主人となってくださいました。
パウロは独身の男性ですが、イエス様によって神様と和解し、神様を主人として迎え、霊の子どもを多く産みました。そして、その子供に送った文書が、新約聖書となっています。
肉によって生まれた命は必ず滅びますが、霊によって生まれた命は、永遠に続くのです。ペテロは、福音により、一日で3千人の子供を産みました。(使徒2:41)
イエス様は、神様のみこころを地にあらわすために来られ、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と 仰いました。パウロは、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(コリント11:1)と告げています。
私たちもパウロを見ならい、神様のみこころをイエス様のように、地にあらわそうではありませんか。ハレルヤ。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
(ヨハネ3:16)
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