『アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。』 (創世記20:2)
アブラハムは、またしても愛する妻サラを自分の保身のためにゲラルの王、アビメレクに差し出しました。しかも、前回の失敗同様に、サラは妹であることのみを伝え、妻であることを隠したのです。しかし、神さまは今回もアブラハムとサラを守られました。主がアビメレクに直接語りかけ、救ったのです。
アブラハムは神の召しに従い、父の家を出て主に従いました。「心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2)とありますが、人間の本質はなかなか変わりません。
聖書の中で、同じ罪を繰り返すことを犬に例えられています。イエスさまの時代でも、パリサイ人たちは異邦人を犬と呼び、嫌っていました。しかし、イエスさまは相手の国籍や過去で嫌うことなく、娘の癒しを求めるギリシア人にもイエスさまをメシアと信じる信仰に応えられました。
アブラハムとサラはこの事件の後に、約束の子イサクを与えられます。ご存知の通り、アブラハムはようやく与えられたイサクを生贄にしようとします。必ず救ってくださる神への揺るがない信頼のゆえに、神の言葉に従ったのです。
失敗のない人生は輝いて見えます。しかし、アブラハムは失敗を繰り返し、その度に神さまにより悔い改めに導かれ回復されたからこそ、このような信仰を持つことができたのです。
私たちは日々、人間関係、経済、コロナの状況など色々な困難や試練に直面します。何度も同じ問題が繰り返されることもあります。神さまは脱出の道も備えておられます。しかし、その一つ一つの問題の解決だけを脱出の道とするなら、また試練の度に心を騒がし、誤った解決をしかねません。
イエスさまは多くの奇跡によって人々の問題を解決されました。しかし、イエスさまの最たる目的は十字架で命を捧げ、父なる神と私たちの関係を回復することでした。そこに真のいのちがあり、真の回復があるからです。
神は約束の民も異邦人も決して見捨てはしません。命を捨てて私たちを救い、聖であるとしてくださったイエスさまが神の愛の証です。心が揺るがされないよう、イエスはご自分の名により助け主である聖霊を与えておられます。問題や状況ではなく、揺るがない愛のイエスさまを見上げ、生かされ続けましょう。
『「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。』
(ヨハネ14:1)
(文責:朋子)
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