『わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正を行わせるため、主がアブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。』(創世記18:19)
アブラハムは主と二人の客人を見送りにいきました。敬意を表すと共に、離れがたい気持ちがあったのかもしれません。そのようなアブラハムに、主もご自分の心を明らかにされます。
ソドムとゴモラに対する裁きについて聞いたアブラハムは、主にとりなしました。以前の失敗に学ばずソドムに住み続けるロトたち、神さまに背を向けて生きる町に対してアブラハムは責めるのではなく、主に救いを求めたのです。すると、主は町に10人の正しい人がいれば彼らを滅ぼしはしないと、アブラハムの叫びを聞かれました。
モーセに顔と顔を合わせ、友と語るように語られたように(出エ33:11)、かたい友情で結ばれたダビデとヨナタンの心が結びついていたように(1サム18:1)、神さまはアブラハムの前に立たれ、友のように心のうちを明らかにされました。
アブラハムは自分の正しさによってでなく、主の憐れみにすがって祈りました。神さまの心がアブラハムの心と一つになることによって、祈りに導かれたのです。
自分自身を愛するように隣人を愛すること、私たちがすべての人と友となることは人間にはできません。人の感情はその時々でうつり変わります。また、実際に心が通うほどの関係性を築く時間も私たちの心にも限りがあります。
しかし、イエスさまは自分の命を十字架で捧げ、最も大きな愛を私たちに示してくださいました。そして、私たちの友となり、父なる神さまの心を私たちに知らせてくださるのです。
神さまは悪い者の死を喜ばず、立ち返って生きることを喜ぶお方です。だれが死ぬのも喜ばない(エゼ18:23、32)あわれみの心を持っておられるお方です。
イエスさまによって私たちの心は主の心と一つにされます。イエスさまを信じる者に与えてくださった聖霊さまが、私たちをとりなしの心に導き、祈りに導いてくださるのです。友と語るようにあなたに語ってくださる主の声を、受け取りましょう。イエスさまの愛の心に、神さまの愛の心に、主ご自身が私たちの心を結びつけてくださいます。
『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなた方を友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』 (ヨハネ15:15)
(文責:朋子)
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