『主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている』(創世記18:14)
父の日おめでとうございます。アブラハムは父として家長としての責任を自負していました。三人の人が自分の天幕の前に来た時、アブラハムは手厚いもてなしをしました。今日もベドウィンと呼ばれる遊牧民がお客をもてなすことを大切にしているように、相手との友好関係を作るためです。
しかし、彼らがサラを呼ぶよう命じた時、アブラハムとサラの目が開かれます。当時、妻は客人の前に顔を出さず、古来の知人であればサラという新しい名は知りません。夫婦は客人の一人が主であることを悟り、約束の子がサラによって与えられるという信じられなかった神のことばを信じたのです。
エペソ5:23には「夫は妻のかしら」とあります。妻のかしらとなり妻を愛するとは、教会のかしらであるイエスさまの姿です。良い父・良い夫となりたいと思うことは、良いことです。しかし、あなたが主権をとってすべての責任を一人で負うことはできません。主にしか治められない領域があるのです。
年老いたアブラハムとサラとの間に約束の子が与えられることは、人間の理解を超えます。主の約束を信じたアブラハムも、サラの心までは治めることはできませんでした。
サラの信仰について、主はアブラハムを責めてはおられません。天幕におり姿が見えないサラの名を呼び、彼女に直接語られました。主の約束に対する信仰のないサラに呼びかけ、主ご自身が介入して約束を信じるようにと導かれたのです。
イエスさまは、仕える者としてこの地にこられ、十字架でご自分の体を捧げ、その血潮で私たちの罪や汚れを洗い流し神との和解に導かれました。十字架の贖いを受け取り、自分の重荷を下ろしイエスさまの負いやすく軽いくびきを負いなさいと、主は私たちに語りかけておられます。
イエスを主と信じる者の心には、主の霊が住んでおられます。しかし、あなたは主を何者として、あなたの心のどの領域までお迎えしているでしょうか。神さまはご自分を戸の中に入れる自由さえも私たちに人に与えてくださっています。
通りすがりの客人ではなく、あなたのくびきを共に背負う主人として共に生きようと、主はあなたの前に来ておられます。主の招きに応えるなら、アブラハムとサラのように、あなたの家庭も人生も、主ご自身が豊かに治めてくださいます。
『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます』(マタイ6:33)
(文責:朋子)
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