『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』
(ヤコブ1:6-7)
神様は、みこころに従って祈る、私たちの祈りを聞いてくださいます。しかし、私たちが祈るとき、この祈りを妨げるものがあるのです。
その第一は、疑いです。私たちの感覚は信仰を減退させようとします。目で見、耳で聞き、手で触るものが、祈っているようにはならないと思わせるのです。それがやがて疑いとなり, その疑いが信仰を破壊してしまうのです。ですから、感覚を通して働いてくるこれらの思いを、みことばに堅く立って退けなければなりません。
第二の妨げは、理性の批判です。私たち、理性中心の教育を受けた思いは、「これは非合理である、これは起こり得ないことである。」と言うのです。理性はこのような攻撃をもって信仰を破壊しようとするのです。これに打ち勝つものは、神様のみことばです。ローマ書10章17節には「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。
神様のみことばは、私たちの心に信仰を起こします。感情に立った信仰ではなく、みことばによって心に起こされた信仰を持たなければなりません。みことばを読み、聞き、学び、思い巡らし、祈るのです。そのとき、みことばは私たちの心に語りかけ、信仰を起こすのです。私たちに創造的な体験をさせてくれるのはみことばです。
そして、祈りましょう。祈りは神様との交わりです。祈りを通して神様と交わるならば、感覚的、理性的、懐疑的雰囲気を乗り越えていくことができます。絶望と懐疑にまぎれた人が祈るなら、神様との交わりによっていのちを得て生き返ります。それゆえ、私たちは毎日祈ることが大切です。
そのとき大切なのは、聖霊様の助けを求めることです。聖霊様は私たちを助けるため、使わされた助け主です。私たちは、どう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためとりなしてくださいます。ハレルヤ。
『そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らと共に働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。』(マルコ16:20)
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