『こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。』 (創世記23:20)
アブラハムの最愛の妻サラが召されました。彼女の人生は、夫アブラハムに従い続ける人生でした。不妊で定住地を持たず、夫に従い進む人生はどれほど忍耐が必要だったでしょう。
「耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。」(ヤコブ5:11)と聖書は言います。しかし、現実には、輝いて評価される人生、耐えなくともすぐに幸せと認められる人生、その方が魅力的で評価されます。しかし、クリスチャンであってもなくても、そのような人生を受け取る人はごくわずか少数です。
イエスさまもそうです。十字架にかかって死ぬために、人となってこの地に来られました。けれども、イエスさまは死んで終わらず、よみがえられたのです。呪いの象徴であった十字架を救いの象徴と変え、全ての人に救いの道をもたらしました。
アブラハムはサラの墓地のために破格の金額でマクペラの畑地を買いました。しかし、アブラハムにとっては無駄な支払いではありません。なぜなら、神が約束されたこの地を十分な値で買い取ることで、公に所有を認められたからです。マクペラは後に、ヘブロン、ダビデの王国の礎の地となっていきます。
イエスを主と信じるものは、神の民、神の所有とされます。なぜなら、主イエスが全ての罪の代価を完済し、罪の奴隷であった人間を買い取り、神の子としてくださったからです。イエスさまは「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:3)という神の愛を体現されたのです。
自分は耐え忍ぶばかりの人生だとあなた自身は思うかもしれません。しかし、イエスを主と信じるなら、あなたの人生はいのちの冠を受けます。古い自分に死んで神の所有の民とされたあなたを、祝福の基とし、神の国の礎と神がされるのです。
アブラハムとサラが寄留者の人生を耐え抜けたのは、祝福の約束をしてくださった神のことばが与えられていたからです。私たちもこの世の人生の苦難を、力である神のことばによって耐え抜くことができます。そして、この神のことばこそ、この地に来られたイエス・キリストです。私たちの人生に光を照らすイエスさまに思いを馳せ、新たな祝福を受け取るシーズンとこのアドベントがなりますように。
『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』
(Ⅱコリント12:9)
(文責:朋子)
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