『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。』(ガラテヤ5:14)
瀬戸内寂聴尼は多くの人々に惜しまれ、99才の人生を全うされました。彼女は、もうこりたと、よく語っていました。 自分の半生を顧みて、もう懲りた、の意味かと思いましたが違いました。経典の中からの、「忘己利他」の言葉でした。
彼女は51才で剃髪し、得度して、寂聴と名を改めてから、自分を忘れ、人々のために全てを捧げて生きました。まさに、「忘己利他」を地で歩んだ人です。
その影響もあって、今日の聖句となりました。今日の聖句は、経典の、「忘己利他」と同じ意味です。この世界は律法の世界であり、律法を守る以外に救いの道はありません。
仏教では、そのための剃髪であり、得度です。これは聖書の割礼と同じです。しかし、キリスト教で洗礼の代わりに、割礼を規定して、何人が救われるだろうかと考えさせられます。
元来、人間の本姓は利己主義であり、凡人である私たちは、人のために生きるようにはできていません。しかし、それでは律法の違反者として裁かれることになります。
それで、私たちを救うため、罪なき神の御子イエス様が、私たちの罪の身代わりとして、十字架につき、律法の刑罰を受けてくださいました。今は、だれでもイエス様を信じて、告白すれば救われる道が開かれているのです。これは神様が造られた、憐れみによる一方的な恵みの道です。
聖書に『「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。』(ロマ13:9)とあります。
私たちがイエス様を信じるならば、隣人を自分自身のように愛したことにしてくださると言うのです。ハレルヤ。そればかりか、イエス様の心が私たちに臨んで、私たち自身が隣人を愛する者へと変えられるのです。
私たちは自分の力によって、律法を完成しようとする人々に後れを取ることはありません。私たちは神様の力によって、律法を完成する者です。否、すでに律法を完成した者です。ハレルヤ。アーメン。
『だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちは、私たちに対する神の愛を知り。また信じています。神は愛です。…』(Ⅰヨハネ4:15-16)
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