『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』(へブル12:2)
今日は、「信仰によって生きる。」がテーマです。
へブル11:6に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。私たちは、神様に喜ばれる人生を歩みたいものです。それで、信仰の父、アブラハムから学びましょう。
へブル11:8に「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」とあります。信仰は、神様の声を聞いて、真実として受け取ることです。
しかし、私たちは、目で見て、触ってみて、食べてみて、真実だと信じるのです。聞いただけで信じることが難しいからです。
思えば、アブラハムも私たちと同じ人間です。しかし、アブラハムは、あらゆる患難にも、神様を信じ通しました。
それは、アブラハムが神様と約束した結果をいつも心に描いて信じていたからです。彼は他民族の地となっている約束の地に、他国人のように天幕生活をして住みました。
今日聖書は「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と言います。しかし、イエス様は 2千年前の方ですから、どうしたら良いのでしょう。ヨハネ書1章を見ますと、神様のことばが人となって現れたのがイエスキリストであると示しています。
ですから、イエス様から目を離すなとは、みことばから目を離すなとなります。神様の約束のみことばに目を留めて離さないことです。そうすれば約束は必ず実現すると言うのです。
イエス様は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」そうすれば、衣食住のすべては与えられると約束されました。(マタイ6:33)そればかりか、私たちに神の子どもとしての特権を与え、万物の相続者として永遠のいのちを約束されました。
その約束の保証として、私たちは「アバ、父。」と呼ぶ聖霊の証印を押されているのです。(ロマ8:15)イエス様が父なる神様の約束を信じて、神様の右に着座されたように、私たちも信仰の父アブラハムに倣い、この世のあらゆる患難に打ち勝って、人生の勝利者として歩みましょう。ハレルヤ。アーメン。
『今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えています。』(ロマ8:18)
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