『それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼ら二人が誓ったからである。』(創世記22:31)
ハガルとイシュマエルを送り出したアブラハムの元に、アビメレクが訪れ同盟を結びました。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」とアビメレクが認めるほど、神さまのアブラハムに対する祝福は、豊かで誠実なものでした。
一つの問題は井戸です。アブラハムたちが堀った井戸をアビメレクのしもべに奪われていました。アブラハムは抗議し、7頭の雌羊を自分の所有の証として、井戸を取り戻しました。
アブラハムはこの井戸があるベエル・シェバに定住しました。ここはペリシテの地です。乾いた荒野、異なる文化の異邦の地で、アブラハムは羊により取り戻した井戸に生かされました。
キリストを信じる私たちも、アブラハム同様、この地上を旅人として生きています。聖書とは異なる考え方の中で、困難や苦しみもあります。しかし、十字架で救いを完成したイエスを救い主と信じる私たちの心には、聖霊さまが与えられています。
この聖霊さまこそ、私たちを生かすいのちの泉です。この泉は決して枯れることはありません。いのちの水が湧き続けます。
イシュマエルも神により目を開かれ、ベエル・シェバの井戸によって命を助けられました。けれども、彼はその井戸から離れ、神から離れた生き方を選んでいくのです。
アブラハムは井戸のそばで暮らし、ペリシテ人の荒野で生かされました。ただ自分の命が繋がれて生きただけではありません。その地の王アビメレクが認める正当な居住者となり、アビメレクとその地域を祝福する者なったのです。それはひとえに永遠に彼と共におられる神によってです。
アブラハムは自分の井戸を、羊という代償を渡して取り戻しました。人間の常識であれば不条理なことです。しかし、神の仔羊であるイエスさまもご自身を十字架にかかって捧げてくださいました。私たち人間に聖霊さまを与え、永遠に神と共に生かすためです。
この世にあっては患難があります。しかし、アブラハムのように命を保つ水源のもとにとどまるなら生かされます。神さまは、求める者をいのちの水で満たしてくださいます。そして、どのような状況にも耐えうるように助け、正しく裁いてくださるのです。私たちを生かす御霊、神の霊でありキリストの霊である聖霊さまを求め続けましょう。
『見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは、喜びながら救いの泉から水を汲む。』
(イザヤ12:2-3)
(文責:朋子)
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