『キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』(ピリピ2:8)
教会はキリストのからだです。イエス・キリストは神の姿を捨て、人となってこの地に来られたお方です。そして、仕えられるためでなく、罪人に仕えるために来られたお方なのです。
罪人とは失われた人です。その罪人を探し、救いに招くために来られたのがイエス・キリストです。罪人が滅びることを良しとはされません。すべての人が滅びることなく、永遠のいのちを得るためにイエスさまはこの地にこられたのです。
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)」しかし、これは教会やクリスチャンが豊かになることだけを意味しません。この豊かさとは、キリストのからだの役割を果たすためものです。
キリストのからだである教会のかしらは、イエスさまです。ギリシア語で教会を意味する「エクレシア」は「ある目的をもって集められた人の集まり」のことです。神さまはクリスチャンに使命を与え、教会に集めておられるのです。
イエスさまはこの地で罪人を救いに招くという目的のために、罪人に仕えられました。同じ目的、使命をキリストのからだである教会は受け継いでいるのです。
からだが健康であるということは、各器官が健康であることです。各器官に与えられている役割は異なりますが、同じ血液で生かされています。そして、それぞれが役割を果たすことで、ひとつのからだは完全となります。
教会も同じです。異なった賜物を持つ一人一人が、異なる役割のために集められました。そして、イエス・キリストを主とすることによって、ひとつとされています。お互いの違いを超え、一致する姿こそが健康な教会なのです。
イエスさまはこの地に来られ、罪人に仕え、救いを与えるため十字架にまで従われました。私たちもイエスさまのようにこの地上で人々に仕え、救いの道を示そうではありませんか。これこそ「生ける教会」です。
ひとつの教会が成長するのでなく、すべての教会が「生ける教会」となることがリバイバルです。会堂が新しくなりましたが、それだけでなく、地域に仕え、人々がキリストに出会う場となる成熟したキリストのからだと教会がなりますように。
『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです』(Ⅰコリント12:27)
※小坂忠師がメッセージを語ってくださいました。
(文責:朋子)
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