『エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』(創世記5:24)
神から離れず生きたアダム、セツの子孫が神の国を継承しました。しかし、彼らは不老不死になったわけではありません。みな生を受け、そして寿命を迎えて死ぬのです。それがアダムによって罪が入った人間の摂理です(ローマ5:12)。
人はアダムに似た形で生まれます。つまり、罪人として生まれてくるのです。しかし、生まれながらの罪とは神との関係の断絶を意味し、生まれつき犯罪歴があるというようなことではありません。神との関係を失って生まれるということです。つまり、人は霊的には死んだ状態で生まれます。
しかし、アダムがそうであったように、その姿は同時に神に愛されるものでもあります。中でもエノクは特別に神に喜ばれました。彼は死なずに天に帰りました(ヘブル11:5)。
彼の人生については、多くを聖書に記されていません。サタンの国カインと神の国セツの分かれ目となった理由のひとつには神さまの声を聞くことです。聞くことは従うことであり、神さまの声を聞くことが神さまを神とする生き方でした。
エノクの名前には「従う」「捧げる」という意味があります。従うことは聞くことです。神の声に従うことは自分の思いを捧げることです。そうするならその歩みは「確かに」されます。いのちの道に招き入れられます(箴言16:9)。
自分の思いとは、自分自身の理想を示すものが多いのではないでしょうか。所得や車、健康といった理想を追い求めるなら、人との競争の中に入ることを意味します。それは、カインのように人より優れたいと妬みの心に支配される生き方です。
しかし、形ある理想のものは一時的な満たしです。アダムたちのように寿命が900年程の人々からしたら一瞬です。
また、人の心は永遠を求めるように作られています(伝道者3:11)。人を傷つけ争い得た一瞬の喜びは、人が本当に求めているものとは違うのです。
イエス・キリストの十字架の贖いによって私たちの心の空洞は回復されました。神の霊である聖霊が信じる者の内に住まわれ、求めていた「永遠」で満たしてくださったのです。
その満たしは枯れることのない泉のようです。自分の思いではなく私たちの内におられる聖霊さまを見張り、その声を聞いて生きるとき、エノクのように神と共に歩み、死にも打ち勝つ人生を送ることができます。
なぜなら、そのいのちは死にも打ち勝ったイエス・キリストのいのちだからです。いのちの泉である聖霊さまによって生かされている恵みを今週一週間も味わいましょう。
『もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか』(ガラテヤ5:25)(文責:朋子)
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