『彼は主のおかげで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるようになった。』(創世記10:9)
ハムの子孫ニムロデは最初の権力者であり、最初の王国バベルを築いた人間の王として君臨していきます。人間の目に「勝利者」「成功者」としてうつる姿です。カインの息子レメクも文明を築くという「偉大」な技を成しました。けれども、文明は神さまから離れた生き方へと彼を導きました。
「主のおかげで」祝福され力を得たニムロデでした。しかし、レメク同様、彼の心は神様ではなく「自分のために名をあげる」心へと変化していきます。
神さまは罪の文化を洪水によって洗い流されました。しかし、人の心の奥底には罪の性質が根強く残っています。ニムロデの祝福の源は神さまだと誰の目にも明らかでも、主に栄光を返さず自分の栄光のために生きるという甘い誘惑に負けてしまいました。特に、一人で栄光を受けるときに独りよがりになりやすいのかもしれません。
救いは個人と神との関係のように見えます。イエス・キリストの十字架のあがないを「私」が信じ、「私」が神さまと正しい関係を持てばクリスチャンとして十分のように思えます。
しかし、イエスさまが十字架の救いを羊飼いのたとえでお話しされているように、個人的な関係で救いは完結しません。イエスさまがご自身をささげた十字架によって救われた人は、群れに導かれ、囲いの中で守られ生かされます。
私たちクリスチャンが導かれた群れは教会です。人は弱いままで群れに入れられ、キリストの体である教会の一部に組み合わされます。この体の全ての器官は、主によって愛され、養われ、弱さを洗い流され、「染みもしわもないきよく傷のない教会」に整えられていきます。これこそが栄光の教会です。
キリストの体の中にとどまるなら独りよがりにならず、ニムロデの王国バベルのように破滅を歩みません。人知を超えた広さ、高さ、深さ、長さの愛をもって、主の宮である教会を主ご自身が覆い、整え続けてくださるからです。
栄光の教会とは力を競い合い、自分を誇り合う場所ではなく、詩篇133篇にあるように、共に生かされる喜びの場所です。そして、その場所にとこしえのいのちの祝福が注がれます。私たちもこの教会という群れに共に住み、神の国の民として生かされ、受けたいのちの祝福を地に流しだしていきましょう。
『ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。』(マタイ16:18)
(文責:朋子)
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