『それでセムとヤぺテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。』
(創世記9:23)
ノアは箱舟を出て主を礼拝し、地に出ていきました。ノアたちの必要を満たし守った箱舟の外に出ることは、何もない地を耕し、糧を得るという労苦をするということです。神の民を新たに造るという神さまの使命のために、彼らは出ていきました。
主の声に従ったノアたちは労苦の中でも、ぶどう酒を造ることができるほどに祝福されました。そして、ノアは裸になって寝てしまう程、酒に酔いました。
末息子のハムは、父の裸を見て兄たちに父が裸であることを伝えました。それを聞いたセムとヤペテは父の裸を見ることもせず、着物で裸を覆ったのです。ハムの子カナンにはのろいが、セムとヤペテには祝福が告げられました。特にセムはイエス・キリストを生み出す家系となっていきます。
ノアだけでなく、正気を失うほど悩んでしまう不安定な世の中に私たちは生きています。自分が隠し切れない苦しみを人に暴かれるとはどれほど辛いことでしょう。人の弱さを暴くことは神の国の文化ではありません。友の裸を見ようと酔わせる者こそ恥で満ちている(ハバクク2:15-16)とあります。
「世にあっては患難があります、しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネ16:33)とイエスさまは言われました。イエスさまは私たちの罪を完全にその血で覆いその代価を完全に支払い、救いの道を完成されたのです。
仮庵の祭りで記念する通り、エジプトを出た荒野の神の民たちを雲の柱、火の柱という主の臨在が覆い守りました。同様に患難のあるこの世の中でも、キリストにより神の民とされた私たちを聖霊さまが覆い守ってくださっているのです。
セムとヤペテは、ノアの裸を見ることなく着物で覆いましたが、イエスさまにより新しい契約に入れられ、義の衣で覆われた者の罪は思い起こされることはないのです(エレミヤ31:34)。
この覆いという言葉には水に沈める(詩篇78:53)という意味もあります。聖霊さまは罪や弱さを覆ってくださるだけでなく、それらの古い性質を洗い流し、栄光から栄光へとキリストの姿へと私たちを変えてくださるのです。覆われた者の恵みを味わい、主の使命のためにこの地に遣わされていきましょう。
『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』
(ヨハネ7:37-38) (文責:朋子)
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