『しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」』(創世記2:17)
エデンの園から流れた川は四方に分かれ、全ての地に流れていきました。私たち人は水を蓄えて流す「ちり」から造られました。そして、キリストによって与えられたいのちの泉から受けた水をこの地に流し出す器として造られています。
けれども、今人を通して流れているものは良いものばかりではありません。人を生かすのでなく、批判し傷つける言葉や行動が多く見られます。悪いものが流れる前に、神様が止めてくださればと思いますが、その選択は人に委ねられています。
何に価値を見出すか、愛するか、日々私たちは選択します。エデンの園では、『見るからに好ましく食べるのに良いすべての木』とあるように主の恵みは十分に備えられていました。その中から人は自由に恵みを味わえたのです。
そして、人間は祝福を流し出すとともに、エデンの園を守り、耕す者として造られました。良い実がなるよう土を耕し、敵の侵入から園を守るのです。
敵は神と人を断絶させるためにやってきます。なぜならそれこそが死だからです。神の息、霊によって、人は生きる者とされました。しかし、神の霊が離れるなら、それこそが本当の死なのです。サタンは嘘を用いて人を騙し、神と人の間に溝を、人間の間に争いをもたらし、一致させないようにします。
神に成り代わり、善悪を論じ合わせ、神なしの状態にしてその場を治めることは、置かれた場所を耕し、守る人の働きとはかけ離れています。
食べることが許されていなかった善悪の知識の木の実自体に毒がある訳ではありません。神さまと共に生き、主の決めた定めに人が従うことが祝福なのです。士師記にもあるように、人が神なしで治めるなら、そこにあるのは平和でなく混乱です。
エデンの園とは歓喜という意味です。主が与えられた恵みを味わい、喜ぶ場所です。コロナウイルスのような問題に対する対応も様々です。私たちは主に祈りつつ対応を選択していきますが、対応の良し悪しを決めるのは人ではありません。私たちは主が導く場所に置かれ、その場所と人が生きるために守り仕えるものです。
死にも打ち勝ったキリストの希望が私たちにはあります。聖霊さまによって生かされましょう。主はすべての人を正しい道に導き、いのちを与えることができる方だからです。
『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。』(ガリラヤ5:22〜23) (文責:朋子)