『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』 (創世記2:7)
人間は特別に造られた存在でした。しかし、天地創造の経緯を見るときに、その「特別さ」は、人間が優れた性質だから与えられたのではないことがわかります。他の動物と同じように人間もちりから造られ、死んだらちりにかえる存在です。
神さまに似た姿に造られた肉体に、神さまのいのちの息が吹き込まれたことによって「生きもの」とされたのです。それは、神さまと一つとされ、神さまと交わって生きるいのちです。
いのちの息はアダムの罪によって失われました。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の代価が支払われ、聖霊さまと共に、神さまと共に生きる者として回復されました。神の霊である聖霊さまが今も私たちのうちに住まわれ、私たちを永遠に生かしてくださるのです。
しかし、ちりから造られ、ちりにかえるというみ言葉通り、肉体はいつか死を迎えます。6節を見るとそのちりは、霧によって潤された土地とあります。霧は別訳で地下水とありますが、決して枯れることのない水源からの水により、全面が乾くことなく土地は潤されて浸されていました。
私たちはキリストによって与えられるいのちの水によって、魂を潤されて浸され、生かされています。私たちの渇きを満たしたいのちの水は、枯れることのない泉からあふれ続けて流れ出ていくでしょう。天地創造のとき、絶えることのない地下水が霧となり、地を潤し、やがて川となっていったようにです。
その水は私たちの努力で絞り出して流し出すことはないのです。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』とある通りです。主の霊の導きによって私たちはキリストと出会い、主と生きるいのちに回復されて生かされました。
私たちからいのちの水をあふれ出させてくださるのも主です。この地を、この地の人々を生かす者として、聖霊さまが私たちを整えてくださいます。そして、いのちの水を受け続けるものの人生を、神を信頼する人生の喜びと希望を人々に伝えるものとして主が用いてくださるのです。私たちから主が流してくださるいのちの水の川に主の光がうつり、この地の隅々まで主が輝かせてくださるときを待ち望みましょう。
『 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』(ヨハネ11:25) (文責:朋子)