『また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。』 (創世記1:18)
「ことば」によって万物を創造された主は、ご自分の被造物が作られたそのままの姿を「よし」とされました。しかし、私たちの生きている世の中は、何ができるか、どんな地位にいるか、どんな経歴や財産を持っているかによって評価されます。子どもであっても、期待通りにできない子は評価されず自己肯定感が低くなります。
本来、物の価値は作った人が決めます。陶器も作り手により決められた使い方で使う時に、その陶器の最高の機能を発揮し、盛られた姿が美しくなるようになっています。
初めに造られた被造物もそうです。大空は水を区切るため、地は植物を生じさせるため、光るものは照らすため、植物や生き物は種類も定められています。何を実らせるか、家畜なのか野で暮らすのか、すべて定められ、生きる意味を与えられます。
そして、それらの目的を果たすために十分な姿、つまり完全に造られているのです。初めに神さまが「良い」と言われた通りです。私たち人間も、神さまの目的によって作られました。神に似た姿で作られ、神の息を吹き込まれ、神と一つとして生きる存在として造られました。
アダムにより罪が入り、神から離れて生きるようになりましたが、イエス・キリストが十字架でその罪を贖ってくださいました。神さまの霊によって生かされ、神さまと共に生きる者という、「はじめに」神さまが造ってくださった姿に回復してくださったのです。
天地創造の時に、人が介入しなかったように、神さまが回復してくださった「神の子」としての存在に、人間の作る「良さ」の基準は入りません。『陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。』(イザヤ29:16)とある通りです。
たとえ、この世の基準で傷ついたとしても、その傷を主は癒してくださいます。私たちを形作られた神さまのことばとは、キリストご自身です。どこに傷があって苦しんでいるかをご存知で、ご自身が造られた完全な姿に回復してくださるのです。
はじめに私たちを良いものとして造ってくださったキリストの愛を、受け取り続けましょう。御霊なる主の働きによって、造られた時の姿、主と同じ姿に回復し続けてくださいます。
『それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。』(使徒3:20) (文責:朋子)