『イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」』(ルカ19:40)
イエスさまがエルサレムに入城される場面です。イエスさまをメシアとしてお迎えする者とそれに反対する者に民は二分しました。パリサイ人はイエスさまを賛美する人を黙らせようとましたが、イエスさまは主題聖句のようにお答えになりました。
エステル記には、『もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」』(エステル4:14)とあります。
モルデカイは命をかけて想像主なる神だけを礼拝することを選びました。それは、民族滅亡の危機を招きました。けれども、エステルも沈黙することなく神にとりなし祈り、王の前に出ました。神は祈りを聞かれユダヤの民を救われたのです。
イエスさまはエルサレム入城にあたり、ゼカリヤ9:9にあるメシアの姿を成就されました。それは主が十字架に向かい、ご自身のいのちを捧げる時が来たことを意味します。
イエスさまをキリスト、つまりメシアの姿と証したのは、この場面に出てくる人の全ての働きが関わっています。ろばを飼う日常の仕事も、死に行かれる主を賛美で迎えるということもです。主のご計画に導かれた人がイエスさまに繋がることによって、イエスを救い主と告白する働きの一部とされたのです。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8:28)とは、クリスチャンは何をしても益になるという教えでしょうか。
そうではなく、ぶどうの木であるキリストに接ぎ木されることが重要なのです。そうすれば、行いの大小や結果が成功か失敗かに関係なく、主のご計画と人の行いを、主ご自身が一体にして働かせ益としてくださるのです。なぜなら、いのちの木であるイエスさまからいのちが流れ、枝である人を生かすからです。
神様は、私たちにイエス・キリストにより永遠のいのちを与えられとなりました。もちろん、救い主について黙ることもできます。けれども、主を賛美し証する者として、主があなたを召されたのです。その計画はわざわいではなく平安を与える主の計画です。主のご計画に希望をもって導かれていきましょう。
『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・』(イザヤ55:8) (文責:朋子)