『彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。』(ルカ19:26)
ザアカイに続くミナのたとえ話です。ある身分の高い人が、王位を継ぐために国に帰る間にしもべにお金を預けます。お金を増やしたしもべは、増やした分、治める街を与えられましたが、隠しておいたしもべは、増やすこともできないばかりか、持っていたお金も取り上げられてしまうのです。
エルサレムに入城しユダヤの民をローマから救う王として、民はイエスさまを考えました。しかし、そうではなく十字架にかかり救いを完成し、天に帰られ、再び王として来られる真のメシアの姿をこのたとえ話は語っているのです。
ミナは十人の人に一人1ミナずつ預けられましたが、私たちにも救いが平等に与えられています。その恵みをどう取り扱うか、問いかけられているのかもしれません。
では、一生懸命に伝道して実を結ばなければ、救いは取り去られるのでしょうか。確かに、利益を出した者は褒められ多くのものを任されました。しかし、1ミナを隠しておいた者は、何もしなかったから叱責されたのではありません。主人のご性質を、厳しく取り立て蒔いていないものまで刈り取る方だと誤って理解をし、告白したその言葉通りに主人が裁いたのです。
私たちの主は、罪人の家を訪れ、一緒に食事をし、泊まられるお方です。私たちの罪を赦すために、神であられるのに地上に来られ、十字架にかかって命を捧げて下さったお方です。一度天に戻られますが、人を生かす御霊を信じる者に注いでくださるお方です。しもべの理解とは正反対の、愛の主です。
私たちの行いや努力に関係なく、救いに招き、歩みを導いてくださる愛なる方が私たちの主です。商売するという単語には、業務に従事するという意味があります。すでに神さまが備えておられるご計画を教えてくださいと主に求めるなら、一人一人に与えられた働きに、聖霊さまが導いてくださるでしょう。
マルコ4:21では、あかりは隠すものでなく、燭台の上に置くものとあります。十字架で私たちに最高の愛を示して下さったお方が私の主ですと日々告白しましょう。この世を照らすいのちの光が隠されることなく、お一人お一人を通して、主の栄光がこの地に現れて行きますように。
『その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(イザヤ9:7) (文責:朋子)