『イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」』(ルカ19:9-10)
今日はザアカイの救いの場面です。ザアカイは取税人で、同胞のユダヤ人からも嫌われる存在でした。そんなザアカイのことをイエスさまは名前を呼び、ザアカイの家に泊まられました。
18章で、裕福な者が神の国に入ることは難しいことだとイエスさまは語られました。しかし、盗み取って金持ちとなったザアカイは『アブラハムの子』と言われ、救われたのです。
孤独だった心を、イエスさまの愛によって満たされた時に彼は変わりました。ザアカイという名には「義人」という意味があります。「罪人」と呼ばれていた彼を「義人」とイエスさまは呼ばれたのです。主の目にザアカイは、神さまが創られた良い姿として、また彼の犯した罪も悔い改めに導かれていく、回復された者の姿として映っていたことでしょう。そのような愛によってザアカイの心は溶かされ、一新されていったのです。
だからこそ、ザアカイは強いられたのでなく、自分から罪を悔い改め、頼りとしていたお金を貧しい人に捧げ、だまし取った人に4倍にして返しました。アブラハムの子孫として、祝福をこの地にもたらす者と変えられたのです。
私たちに対する主イエスの目線もそうです。完全ではなくても、弱さがあっても、神さまが母の胎に創られた者として、回復され続ける者として愛し続けてくださっているのです。
ザアカイの話の後には、ミナの話が続きます。与えられたものを用いる話です。私たちには、誰かに与えることのできるものを、神さまから十分に与えられています。少なくとも、イエスの十字架という最も素晴らしく、永遠に変わらない希望を持っています。
先日結婚式に行きましたが、どんな時も相手を愛するという誓いの言葉が心に響きました。身近になる程に様々な面が見え、愛すること、敬うこと、慈しむことができなくなる弱さを私自身も覚えます。と同時に、永遠の愛で愛し続けてくださるイエス・キリスト愛の大きさを覚え、改めて感動しました。
この愛なる主の霊が私たちの内に住んでくださっているのです。ザアカイはイエスさまの愛に感動し、自分を主に委ね、人生が一新されました。私たちもイエスさまの愛に感動し、変えられた者として、聖霊さまに全てを委ねて行きましょう。そうするならば、私たちの人生も、自分の力でなく、主の愛によって、人を愛し行動する者の人生へと変えられていくでしょう。
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』(詩篇37:5)
(文責:朋子)