『良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。』(マタイ12:35)
イエスさまの癒しのわざを見たパリサイ人たちは、悪霊の力によると責めました。彼らは癒し自体を信じていなかったわけではありません。ではなぜ、責めたのでしょう。そこには14節にあるイエスさまを滅ぼしたいという思いが強く影響していると言えます。
自分と同じ、もしくは似た考えを支持する傾向が人にはあります。人の思いをはるかに超えることをなさるイエスさまを、救い主と信じることは人の理解だけでできることでしょうか。
『ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』(Ⅰコリント12:3)とある通り、私たちは聖霊さまによって救いの道に導かれました。そして、聖霊さまは私たちの内に住んでくださり、天に帰るその日まで、私たちを導き続けてくださるのです。
パリサイ人たちは、明らかにイエスさまに敵対しました。私たちは主の「味方」となっているでしょうか。主の味方とはイエスさまから離れない人です。日々、聖書を味わい、祈りの中で主と交わることで主との個人的な関係性は深まっていきます。
また、人間関係の中にイエスさまを認める人のことです。同じクリスチャンであっても、異なる考えを持ちます。信仰生活の歩みも様々です。私たちは別の働きをからだの中でする器官と例えられるように、違いがあるものです。
しかし、その異なる私たちがキリストのからだとして一つとされたのです。主は十字架ですべての敵意を廃棄し、異なるものを一つからだとしてくださった愛の方です。私たちは違いを支持できない弱さの中に生きるのではなく、イエスさまの味方としての生き方を選ぶことができるのです。
イエス・キリストを信じた人の内には聖霊さまがおられます。私たちが出す言葉、行動も、良い心から取り出すことを選ぶなら、そこに平和の主が働いてくださいます。どの器官も切り離されることなく主の愛の中にお互いを保ち、キリストによって集められたからだである教会を通して主の栄光があらわされますように。
『それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(Ⅰコリント12:25-27)
(文責:朋子)