『もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。』(ローマ14:8)
どの人にも平等に生と死が与えられています。それはキリストを通して天の御国に帰る道のりとなるのです。主題聖句の時代には、ユダヤ人も、異邦人もイエス・キリストを信じることにより、クリスチャンとなりました。
しかし、文化的背景が違うため、同じクリスチャンであっても律法、食物規定を守るユダヤ人クリスチャンもいれば、そういう習慣がなく、文字通り自由に生きる異邦人クリスチャンもいました。彼らはお互いの行いや生活を見て、裁き合っていましたが、それは大切なことではないとパウロは言っています。
ピリピ人の3:20にある通り、キリストに捕らえられたクリスチャンは天に国籍を持つものです。天の御国を故郷とし、天に思いを向け、天の文化の中に生きるという新しい生き方を与えられたのです。それは互いの違い、弱さを責め合い、無理やり矯正し合うような生き方ではないのです。
主イエスは、私たちのために十字架で命を捧げ、最も偉大な愛を示すために来られました。過去の行い、人間性や血筋によらず、全ての人に平等に与えられているのが主の救いの計画です。すでにその恵みを受け取っているのがクリスチャンです。
主イエスにより全ての罪の縛りから解放された私たちは、自分たちが受けた愛を持って互いを愛し、仕えるものとされています。隣人を愛しますと言いながら自分の基準で相手を矯正しようとするなら、それこそ打ち砕かれるべき弱さかもしれません。私たちの力でなく、神の力がこの地に現れる時に神の国がこの地で現わされるのです。
私たちの弱さは、イエス・キリストと共に十字架につけられ、すでに打ち砕かれています。主から与えられた新たな地上の旅路を、私たちはどのように歩み、何を遺すのでしょうか。
主イエスの霊である聖霊に導かれて生きるなら、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という永遠に残る御霊の実を見るでしょう。そして、私たちの肉体が死を迎えても、キリストと共に生きた証は滅びることなく十字架の福音を伝えます。どんな財産よりも尊い、キリストと共に生きるという恵の遺産を愛する家族や友に繋いでいくことができるのです。
『主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。私の目はいつも主に向かう。主が私の足を網から引き出してくださるから。』
(詩篇25:12ー15)(文責:朋子)