『キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれた者である。」と書いてあるからです。』(ガラテヤ3:13)
前回は「罪の原点」について説きました。今日は「福音の中心思想」についてです。今は、多くの思想や考えがあり、惑わしがあります。このような時代にあって、福音をしっかりと自分のものとして持っていることが大切です。
第一に、創造と堕落の教えです。
神様は6日間で天地を創造され、創造のみわざの最後に、ご自分のかたちに似せてアダムとエバを創造されました。彼らは歓喜の園エデンに住まわせられたのです。しかし、そこで悪魔の誘惑に惑わされて、創造主への信頼を捨て、自分の目に好ましく見えるものを求めて生きるという欲の道を選んだのです。そして、彼らはエデンの園から追い出されました。
彼らの罪によって三つのわざわいが世界をおおいました。一つ目は、霊的な死であり。二つ目は、肉体の死です。最後は、環境の呪いです。この地は、いばらとあざみを生じ、人は、職を得て、生活するため、額に汗を流さなければ生きられなくなったのです。
第二は、イエス様のあがないの教えです。
人の力では、霊的な死、肉体の死、環境の呪いを取り除くことはできません。イエス様はこのことをするため、この世に来てくださいました。そして、神の御国の到来を宣言し、人間の罪の身代わりとして、十字架につき、私たちをあがなってくださいました。
第三に、信仰生活の教えです。
この世にあって生きる者には、悪魔の誘惑はなおあります。 しかし、神様を疑ってはなりません。神様を信じて、委ねることにより、神様が責任を取ってくださいます。私たちの信仰 生活は、神様に仕える生活です。世の富、栄華、名誉は過ぎ去っていくものです。この世のこれらのものを得るために生きるのではなく、神様のみこころを世に現すため生きるのです。パウロはこのように告白しています。私たちもこの告白をもって生きていきましょう。
『私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の冠がわたしのために用意されているだけです。』(Ⅱテモテ4:7-8)