『イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」』(ヨハネ12:7)
今は、レントです。イエス様はベタニヤで、死人から甦った ラザロの家で晩餐に与かっていました。
その時、マリヤが非常に高価で、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエス様の足に塗り、彼女の髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。ところが、弟子のひとりが「なぜ、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ってマリヤを責めました。
しかし、他の所では、「すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。」とあります。弟子のひとりだけが言ったのではありません。皆が責めたのです。
では、なぜイエス様の葬りの日が弟子たちに分からず、マリヤにだけ分かったのでしょうか。弟子たちはいつもイエス様と一緒に居て、話を聞いていたはずですが理解しませんでした。
マリヤにだけイエス様の葬りの日が分かったのは、マリヤの心の姿勢が弟子と違っていたからです。弟子たちは、キリストはエルサレムで王になると信じていました。しかし、マリヤはキリストは人々を罪から救うために来たのだと理解していたのです。この違いが大きいのです。
マリヤはかつて、イエス様から、「あなたの罪は赦されています。」(ルカ7:48)と宣言された女でした。それで、彼女はイエス様の話を聞く耳を持っていました。それは、マルタから避難されるほど熱心でした。非難するマルタに、イエス様は、
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41)と諭されました。
このマリヤの姿勢が、イエス様が人の罪のために十字架につき、三日目に甦ることを悟ったのです。
弟子たちも、同じことを聞きながら、悟ることができませんでした。しかし、マリヤが、イエス様の死に対して理解を示し、香油を注ぐことができたことは、イエス様の大きな喜びであり、また、私たちクリスチャンへの慰めでもあります。ハレルヤ。
『「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。』(Ⅰテモテ1:15)