ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。(ルカ24:6)
イースターおめでとうございます。まだ暗い時間に女性たちはイエスさまの遺体があるはずの墓にやってきました。イエスさまが墓に葬られたとき、安息日となりお体に香料や香油を塗ることができませんでした。愛するイエスさまを埋葬したい!そんな気持ちで彼女たちは墓に急いで行きました。
しかし、墓には何もなかったのです。女性たちも弟子たちも、イエスさまが十字架にかかり死なれた悲しみにより、ガリラヤで話された大切なことを忘れていました。それは、「イエスが人の手に一度渡され、死に、三日目によみがえ」られる、という希望のお言葉でした。
その言葉を思い出した女性たちは、目が開かれました。一時的な救いでなく、永遠の救いを完成されたイエスさまに再会し、イエスさまこそがメシアであることを理解しました。そして証を聞いた人も「新しい人」として生かされていくのです。
私たちも悲しみや悩みにとらわれるとき、イエスさまがすべてを解決される救い主であることを見失うことはないでしょうか。
イエスさまをメシアと信じ、新しい人として生かされた人の一人がルカ7章の「罪深い女」です。彼女は涙で主の足を洗い、香油を塗りました。足を洗うためには主の足元で流すだけでは足りません。涙つぼの涙を注いだと考えられます。
当時、苦しみ、悲しみがあると、涙をつぼに収め、蓋をしてとっておいたそうです。彼女は悲しみの象徴である涙つぼの涙を主の足に流しました。それは、イエスさまが彼女の悲しみを取り去ってくださるメシアと信じ、救いを求めたことを意味します。イエスさまは、彼女の悲しみや苦しみの涙をまさに身につけ、十字架にかかって救いを完成してくださったのです。
病や苦しみ、悲しみによって流した涙の記憶は、這い上がる力となるかもしれません。しかし、本当の解放や解決をもたらしません。私たちの生きる力は、涙つぼの中の涙でなく、イエス・キリストにより私たちの内に与えられた、かれることのない泉です。
私たちの悲しみや憎しみ、罪でさえも主の前に注ぎ出すなら、もうここにはありません。主が背負って救いを完成してくださいました。主を知る私たちも、内側に与えられた泉から湧き出る水を飲み、新しい人として生きようではありませんか。
『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』(イザヤ53:5)
(文責:朋子)