その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:12、13)
今日は「シュロの主日」です。イエスさまが復活される一週間前に、エルサレムに入城されたことを覚えます。同時に、受難週の始まりでもあります。
シュロはナツメヤシのことで、繁栄を意味します。この入城に立ち会った人々の多くは、イエスさまのことをダビデのようにイスラエルを救い、強固な王国を再建し、繁栄させる、そのような「人間」の王様と思っていました。
しかし、イエスさまは武力を持たず、ろばの子に乗って来られました。『柔和でろばに乗って来られる(ゼカ9:9)』『わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。(ゼカ9:10)』戦いではなく平和をもたらす、まさに真のメシアのお姿でしたが、民の理想とは正反対のお姿でした。
イエスさまはあざけられ、打たれ、十字架につけられていきます。けれども、そのエルサレムで死を打ち破り、よみがえられました。それが意味するのは、ローマの支配から解放される「救い」ではなく、すべてを創造し、すべてを治める王の王、主の主である神様との「和解」という、本当の「救い」です。
たとえ、地上でローマ帝国から解放されても、それは永遠のことではありません。地上の旅路、その旅路を終えた後も神さまとともに生きること、それこそが永遠に続く本当の解放です。
弟子たちも、イエスさまが十字架にかかられ、復活され栄光を受けられたとき、すべてを悟りました。私たちも、この十字架にかかり、三日目に復活し、すべての罪の贖いを完成されたイエス・キリストを知っている者です。自分の理想通りに主が介入されない、祈りが聞かれないように思えることもあります。
しかし、そのようなときこそ、神さまの霊であり、イエスさまの霊である聖霊さまにより頼み祈りましょう。イエスさまが今も生きて、救い主として私たちの状況に介入されていることを悟らせ、神様の最善のご計画が何であるのか理解させてくださいます。
エペソ3:20にあるように「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる」方に期待しましょう。
『しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。』
(ミカ7:7)(文責:朋子)