『『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。人の子は安息日の主です。」』(マタイ12:7-8)
パリサイ派の人々とイエスさまが安息日について論じておられる場面です。「安息日」とは、天地創造の7日目に神さまが休まれた「聖なる日」のことであり、十戒の中で、「どんな仕事もしてはならない」日と定められました。
そして、イスラエルの民にとって、神に選ばれた民とされるしるしでもありました。ですから、「神の選びの民」というアイデンティティを守るために、この安息日を守ることはパリサイ派の人々にとっても必然のことだったでしょう。
安息日とは肉体的・精神的労働から離れ、平安を得る主と交わる時です。出エジプトの際には、主の声に従ってエジプトをでて、荒野で主に祭りを捧げる、つまり礼拝することを主は命じられました。ただ何もしないというのではありません。
エジプトを出た後の荒野の旅路は過酷に思えますが、ネヘミヤ9章にあるようにイスラエルの民は衣食住に不足せず、40年もの間、神さまの守りの中を歩みました。偶像を拝んだときでさえ、神さまは民をお見捨てにならず、愛といつくしみ、恵みを豊かに注ぎ続けてくださいました。イスラエルの民は神さまと交わり、神さまを知る時間を荒野で過ごしたのです。
私たちもイエス・キリストにより聖くされ、神の民となっています。そして、様々な苦難から救い出され、新しい人生を与えられました。私たちの行いでなく、あわれんでくださる神さまの恵みにより選びの民とされたのです。
イスラエルの民を決して見捨てられなかったように、イエス・キリストにより神の民とされた私たち一人一人をも神さまは決して見捨てられません。私たちの目には何も変化しないように思える時でさえも、神さまは共にいてくださり、ご自分のことを私たちに知って欲しいと神さまは願っておられます。
あわれみ深い神さまをいつも仰ぎ見、祈り、み言葉を味わい、賛美し、交わっていくとき、私たちは神さまをさらに深く知るようになります。さらに、次に進む力を与えられ、一歩踏み出すことができるでしょう。イスラエルの民も、約束の地へと入る勇気と力を荒野で与えられたのです。神さまの恵みを覚え、主と交わる安息を共に喜び、味わいましょう。
『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。』(ミカ6:8)
(文責:朋子)