『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」』 (ルカ10:29)
新年最初の聖日に当たり、年間聖句の「神は愛なり。」に ついての学びです。今日は、律法の専門家が、イエス様をためそうとして言った「永遠のいのちは何をしたら受けることができますか。」の言葉からです。
彼は聖書には、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とありますが隣人とは、だれのことを言っているのですかと質問しています。
イエス様は、強盗に半殺しにされた旅人の話をし、彼を助けたサマリヤ人を示して、「だれが強盗に会った人の隣人になったか。」と質問します。これではサマリヤ人です。と答えざるを得ません。その答えに対してイエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。
ユダヤ人とサマリヤ人は仲が悪く、ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していました。イエス様の意表を突く教えに、律法の専門家は戸惑ったことでしょう。
しかし、考えてみれば、私たちも律法の専門家パリサイ人と同じです。自分の好きな者を愛し、また自分に良くしてくれる者を愛することはできますが、自分の嫌いな者は愛することができません。
これは、愛の神様から私たちが離れ、独立したことが原因となっています。すべての人が自分を中心にものを考えるからです。自分を中心としたエゴが基礎となっているのです。
本来、人間は敵を愛することはできないのです。しかしこれでは物事が進みません。それで茶道や武道また宗教は修行を強いているのです。修行を積んだ人は立派に見えますが、本物ではありません。外側だけで、中身はないのです。
イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と言われました。イエス様は敵である、私たちを愛し、私たちの罪の身代わりとして、十字架で死んでくださいました。これが本物の愛です。このキリストの愛から離れては、すべてが空しくなります。アーメン。栄光がイエス・キリストにありますように。ハレルヤ。
『高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(ロマ8:39)