『言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。』(マタイ18:3)
今日の聖句は、「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」という弟子たちの質問に対して、イエスさまが答えられた箇所です。イエスさまはその質問に対して、悔い改めて子どものようにならなければ、だれが偉いかという以前に、天の御国にさえ入れないという宣告をされたのです。
ここでの「子ども」は単純に「純粋な存在」を表しているのでしょうか。このときイエスさまは子どもを呼び寄せました。子どもは熱中していると他の声が聞こえないことがありますが、この子はイエスさまに注意を向けていたのでしょう。その呼びかける声を聞き、従い、イエスさまの所に行きました。
当時、師弟関係を結ぶには弟子が師を選ぶのですが、イエスさまはそうでありませんでした。先生であるイエスさまが弟子たち一人一人を召したのです。召命されたときの弟子たちは、イエスさまに目を向け、その偉大な方を知り、聞き従ったはずです。しかし、彼らはいつの間にか、「偉大な方」ではなく「偉大になること」に目を向けていました。
イエスさまは、弟子たちに、へりくだり、もう一度私を見なさい、方向を向き直しなさいと語っておられます。
へりくだってイエスさまに従う時、神の御国が開かれ、神さまの御わざがなされます。神の御国とは単純に死後の天国を意味するのではなく、イザヤ52:7に「あなたがたの神が王となる」とある通り、主がこの地を御力により治められるのです。
その方は傷ついた者を癒し、捕らわれ人を解放します。自分が高められるためでなく、弱い者が解放されるための御わざであり御力です。
私たちもイエスさまの呼びかけを聞き、十字架の贖いにより救われました。変わらぬ愛で愛してくださるイエスさまに向いて歩み続けるとき、御国をこの地にもたらす者として、私たちは用いられるのです。
イエスさまは昨日も今日もとこしえに生きておられ、決してあなたを離れず見捨てません。人の目に偉大か、権力を持っているかは大きな問題ではありません。私たちがイエスさまに顔を向け、主の声に聞き従うなら、人の目に小さく弱い者でも用いて主が御わざをなし、御国をそこに現わしてくださいます。
『ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。』(使徒2:25)
(文責:朋子)