『すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。』(マタイ8:2-3)
一節に、「イエスが山から降りてこられると、多くの群衆がイエスに従った。」とあります。そこにひとりのらい病人が来て、お願いをしたのです。今の医学では、このらい病について、いろいろの説がありますが、聖書は、「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」(レビ13:45-46)と規定しています。
この状況では、イエス様に従っていた人々はいっせいに病人から離れ、病人に非難の目を向けたでしょう。イエス様お一人が病人のそばに立っていたことになります。
らい病人と一般民衆の間には深い溝が設けられていました。このらい病人は、病の苦しみ以上に差別と孤独に苦しんだことでしょう。しかし、イエス様はこの深い溝を一瞬にして消されました。らい病人は一瞬にして差別から解放されたのです。
彼の心は病が癒されたこと以上に、歓喜に満たされたことでしょう。それは、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言って、さわることを禁じられている自分に、さわってくださったイエス様の愛を感じたからです。
イエス様は癒しについて人を赦せとか悔い改めよ、の条件を付けていません。彼はイエス様を礼拝しお願いしただけです。これが神様の愛です。この愛に触れた人は人を赦し愛します。
私たちは健康であり。また、家族も仲間もいるかもしれません。街に出れば多くに人に出会います。しかし、私たちは孤独です。このらい病人と同じではありませんか。本当の愛に会ったことがないからです。
聖書は、「神は愛です。」と断言しています。聖書を学んで、神様が私たちを愛してくだっていることを知ろうではありませんか。そうすれば、私たちの心は神様の愛で満たされます。アーメン。
『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』(Ⅰコリント13:13)