『あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』(ヨハネ15:17)
神を愛し、人を愛する、これがわたしたちに与えられている戒めです。戒めとはこれを聞く、読む人に従うことを求める神からの権威あることばを意味します。また、戒めは律法の一つ一つも意味しますが、律法もわたしたちに罪が何かを教え、そこから離れ、神の民として生きる道を示すものでした。主の恵みによって救われた民を守るための教えです。
人を愛する、という戒めは、その内容が指定されておらず守るのが難しい気もします。してはいけないことが決まっていれば、それを避ければいいのです。けれども、愛するという積極的な行動が求められています。
では、何をすれば良いのでしょうか。聖書は、いのちを捨てたキリストがわたしたちを愛するように、互いに愛し合いなさい、と言っています。
もちろん、キリストと全く同じように生命を捨てる場面は、なかなかありませんし、簡単にできることではありません。だからと言って、愛し合うことや神の民として歩むことを諦めてはいけません。
キリストは、わたしにとどまりなさいと命じておられます。そして、キリストにとどまることこそが、互いを愛する生き方に導く道です。とどまるとは何もしないことではなく、キリストのからだである教会に集い続けることです。
もちろん、家で一人でも祈れますし、聖書も学べます。しかし、教会には交わりがあります。教会生活は愛を受けることから始まります。わたしたちも、十字架の贖いを聞き、回復されました。また、教会に集う人からの励ましを受け、キリストの愛を体験したと思います。
キリストの十字架によって救われ、御霊によって歩むときに、そこに実るのは御霊の実です。受けるだけでとどまらず、その愛を互いに流し出す者とわたしたちがなるなら、キリストの体である教会は互いに愛し合う場となります。
初代教会がそうであったように、お互い持てるものを持ち寄り、交わり、愛を受けると共に流す教会へと強められますように。そして、教会を通してますます神の愛がこの地に流し出されていきますように。
『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。』(コロサイ1:18)
(文責:朋子)