『義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』(ヤコブ3:16)
実は、オリーブやブドウの木が実らせる「祝福の印」を意味し、実を実らせる木や人が何者かを表すものです。私たちがクリスチャンであることは私たちの実である行いが証をします。
特にぶどうの栽培は土作りや畑の保護などに手がかかり、平和な時の産物だったようです。また、聖書の時代には棚はなく、地面につるを這わせたため、土にまみれて実をならせないものもありました。ヨハネ15:2にある「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、」の取り除くとは、枝を切るというよりも、その枝を農夫が持ち上げ、石などの上に置いて土に触れなくし、ついた土を払い、実をならせる助けをした姿と考えられるそうです。
イエス様を信じ、そのうちに生かされている私たちは、肉の性質から離れることを選び、歩み出しました。ぶどうの木であるイエス様のご性質を受け継ぎ、実をならせるものと造り変えられました。
父なる神の意志に従い続けられたイエス様のご性質は柔和です。その柔和は神様に対してだけでなく、人に対しても高慢でない生き方でありました。『隣人を自分自身のように愛せよ』という神の意志に完全に服従し、全ての人が神の前に立てるように福音を伝え、愛を示すことではないでしょうか。
誰もが柔和に接したら柔和に接してくれるわけではありません。傷ついたり、悲しみがきたり、柔和な生き方を妥協したくなる誘惑もくるでしょう。しかし、キリストにより生かされた信仰は、行いによって証明されるとヤコブは励ましています。
神様はまず私たちに歩み寄り、ひとり子の命を十字架にかけ、愛を示してくださいました。正しい方が悪い者の身代わりとなられたのです。その愛を思うとき、敵をも愛しなさいと言われた生き方がリアルに迫ってくるのではないでしょうか。
その決断をし、一歩を踏み出すなら必ず神様はあなたの祈りに耳を傾け、助け、導き、傷ついた心も回復してくださいます。父なる神は実をならせない枝も切り捨てず、罪から離れて生きるように愛を持って訓練し成長させてくださるお方です。
キリストという幹にしっかりつながれ、人を生かし、その子孫にいのちをつなぐ実を、聖霊様に導かれて実らせていきましょう。
『父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。』
(ヨハネ15:9) (文責:朋子)