『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。』
(詩篇16:8)
この聖句はサウル王の迫害の中でも、主を見続け、主を信頼し続けたダビデの歌です。また、使徒2:25によれば、メシアの復活の預言でもあります。
イエス様もダビデも、まさに「ゆるぐことがない」というイメージの方です。神様の心を求め、理解し、御心に従い続けられました。しかしながら、いつでも冷静沈着だったか、というと違った一面も私たちは見るのではないでしょうか。
詩篇を読むと、ダビデは「私を救ってください!」と神様に叫んでいます。イエス様も十字架にかかる前のゲッセマネの園で、血のしずくのような汗を流し、大きな叫び声をあげ、泣いて祈られました。
もちろん、イエス様はご自分の復活による十字架の贖いの成就をご存知でした。しかし、同時に十字架に行くまでに、また十字架の上で受けられる肉体、心の痛み、苦しみも知っておられました。そして、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」とひれ伏して祈られたのです。
イエス様は父と子という親密な関係の中で、神様のご自分に対する愛をご存知でした。自分を愛している父のなさることを信頼し、全能者である父なる神に、ご自分を明け渡しておられました。ですから、「わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください。」とイエス様は祈られていくのです。
そう祈られたイエス様の右に神様はおられ、主の守りがいつもイエス様と共にありました。
冷静沈着でいられないくらいに辛いことが起きる場合が、私たちにもあります。感謝なことに「主を信頼するなら守られる」と私たちは信じていますが、さらにその確信が強められますように。主の宮である私達が、主との交わりをより一層大切にするなら、揺るがない信頼の根拠となる主の愛を、親密な関係の中でさらに深く知ることができるでしょう。
イエス様は主に信頼する、苦しみも悲しみも全てを明け渡した、揺るがない勝利の道を示してくださいました。その生き方を選ぶなら、『それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。(詩篇16:9)』という生き方を私たちも体験することができるでしょう。ハレルヤ。
『これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。』
(イザヤ66:2) (文責:朋子)