それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。(ヨハネ13:14)
イエスさまは十字架にかかる前、弟子たちと食事を共にし、彼らの足を洗われました。当時、洗足は奴隷の仕事でしたから、イエスさまが奴隷の姿となり、ひざまずいて足を洗うことは弟子たちにとって大変ショックな出来事でした。
しかし、このイエスさまの洗足は、この後ご自分が低くされ、十字架にかかり、蘇られ、私たちの罪を贖ってくださることを意味していました。贖い主イエスさまを信じることで、私たちは罪を洗われて、完全にきよいものとされました。そして、きよい方である神さまとの関係を回復されたのです。
ですから、聖とされた者としての新しいあゆみとして、私たちは足を洗い合います。しかし、それは相手の罪をなんとかして見つけて洗うというものではありません。イエスさまが愛してくださったように、私たちも愛し合うためです。
イエスさまはご自分を裏切ってしまう、ユダの足も洗われ、彼が席を立つ最後まで共に食卓に座り続け、彼にパンをさき、愛を示されました。最後まで諦めず、しかし悔い改めることを強いることもせず、ただ足を洗い、仕えられた愛です。
誰かと進む方向を揃えたいとき、相手の足を縛って引っ張ると少し重いですが、確実に自分が行きたい方向にいけます。しかし、私たちの方向を定めるのは、心優しくへりくだったイエスさまの愛のくびきです。
この愛の方がなさったように、私たちは互いに足を洗い合うのです。足を洗うことは休息を備えるだけでなく、祭司が聖所に入るためにしたことでもあります。私たちが仕えることは、仕えられる人がもっと神さまに近づく道備えになるでしょう。
同様に、自分も足を洗ってもらいましょう。仕えられることは弱さを責められることではありません。主の前に立つその時まで、疲れている者を助け、みことばで励まし、倒れないように互いに支え合うのが教会です。
新しくされた私たちのあゆみが、聖霊さまに導かれ続け、そのあゆみがイエスさまの愛の証となり、ますます多くの人がこの救いの喜びを味わうことができますように。
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。(Ⅰヨハネ3:23)
(文責:朋子)