『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』(ガラテヤ2:20)
信仰者の正しい生き方とは、ただ一人の主に仕えることです。ひとりの主とは創造主です。主に仕えるとは徹底して僕となることです。僕は自己主張しません。主人の意志に絶対服従します。僕は損得勘定をして、主人に不服を訴えたりしません。主人のために喜んですべてをささげるのです。
パウロは、そのような意味で「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」と宣言しているのです。
しかし、このような信仰の段階は一日でたどり着けるものではありません。多くの患難と試練を通ったのち、初めてこのような段階に達するのです。
人が不幸になるのは、主人を間違って選び、仕えるからです。私たちが創造主を主として仕え、絶対従っていくという心を持つとき、神様は私たちの責任を取ってくださいます。
マタイ11章28節には「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。
人は自分で人生の重荷を解決しようとします。しかし、人にはそのすべてを解決することができません。人はイエス様に仕え、すべての重荷をイエス様に委ねなければなりません。その時、イエス様はすべて解決してくださいます。自我が完全に砕かれ、イエス様に全面的に頼る人が祝福されるのです。
しかし、自我は一朝一夕で砕かれるものではありません。ヤコブは20年かけて砕かれ、ヨセフは13年かかりました。モーセは40年かかったのです。彼らは砕かれてはじめて、自己中心主義を捨てて、神様を主として従ったのです。
神様が用いられる人は、知識や能力によるのではなく、神様を主として完全に従う砕かれた人を用いられます。私たちは、試練や患難を通して少しずつ砕かれていくのです。ですから、すべてのことを感謝して神様に期待しましょう。ハレルヤ。
『また、この世の取るに足らない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。』(Ⅰコリント1:28)