『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』(使徒1:4〜5)
先週はイースターでした。イエス様は復活された後、生きておられることを500人以上もの人びとにあらわされました。そして、大宣教命令をされ、使徒2章で聖霊を受けた弟子たちは出て行きます。しかし、彼らに最初に与えられた仕事はエルサレムで待つことでした。
もしイエス様の復活を実際に見たら、すぐ伝えに行きたいと思いませんか。待つことは苦しくない命令のように思えますが、何かしたいという熱い思いをもつときには忍耐が必要です。当時、500人以上がイエス様の復活を見たとありますが、聖霊が下る場所にいたのは120人ほどでした。
私たちも、イエス様が罪のために死に、墓に葬られ、三日目に蘇られたことを、肉の目で見ていませんが、その力を体験し、信じています。伝道したい、行動したいという思いがある一方で、留まらされていると感じることがあるかもしれません。
あえて神様は教会や私たちを留めさせることがあります。けれども、ただじっとすることではありません。初代教会の始まりとなる、圧倒的な聖霊の力は、使徒たちが集まりひとつになり、心を合わせ祈っていたところに下りました。それこそが彼らが待った「父の約束」でした。
留まって祈りに専念することは、教会の動きの停滞のようにみえるかもしれません。実際にはそうではなく、主は私たちに教会に留まり、祈り、力を受けて欲しいと願っておられるのではないでしょうか。
すぐ動きたい、結果を見たい、というのが人間です。しかし、神様の時間と計画があります。私たちもひとつに集まり祈り続け、神様のことばの成就を待ちましょう。そしてこの教会に圧倒的な聖霊の力が働くときを待ちましょう。
私たちの集っているクリスチャン親和会も栄光をあらわす教会のうちのひとつです。圧倒的な聖霊様のご臨在がこの教会に下り、使徒の働きに書かれているようなみわざがこの地になされていくことを期待しましょう。
『そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。』(Ⅰコリント2:4〜5)(文責:朋子)