『それは、ユダヤ人が毎年アダルの月の十四日と十五日を、自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。』(エステル9:21〜22)
ここで述べられているのは、ユダヤ人を滅ぼそうとしたハマンのたくらみから救われたことを祝う祭、プリムのことです。バビロンよりも寛容なペルシャの支配下にあり、ユダヤの人々にも解放への希望の光が見えていたのではないでしょうか。
そんなとき、ハマンのユダヤ人を滅ぼすというたくらみが法令となり、公示されました。民に伝えられたのは過越の祭の前日です。過越の祭はエジプトから救われたことを祝う祭です。捕囚からの救いを期待するユダヤの人々の失望はどれほど大きかったでしょう。
その理由はハマンを拝まないことでした。神様に従わなかったために捕囚の民となったことを知るユダヤの民です。その理由を知り、偶像崇拝してもしなくても同じだ、もう私たちはだめだ・・・などとつぶやいたでしょうか。
そうでなく、みなが心を一つにして断食して祈りました。民族が滅ぼされるかもしれないという現実ではなく、エジプトから、敵からいつも守ってくれた神様を信頼したからです。
その祈りに神様はこたえて下さり、ハマンは処刑され、ユダヤ滅亡の日になるはずの日が、敵を征服する日となりました。ユダヤ人を滅ぼすという勅令を取り消すことはできませんでした。しかし、ユダヤ人を滅ぼそうとする者を根絶やしにすることが法令として公示されたのです。
神様は一年という猶予を与えて下さったので、ユダヤの民は敵と戦うために十分に準備できました。さらには王様が特別に愛する王妃の民だと明らかになった彼らを滅ぼすことなどできるでしょうか。
私たちの生活の中でも、物事が好転すると思ったら、反対に希望を失う程の問題に直面することもあるかもしれません。けれども、創造主なる神、王の王である主が共におられる私たちに恐れは必要ありません。その方に信頼するなら、悲しみも喜びに変えられます。
エステルたちも完全な勝利を見るまで約一年かかりました。私たちの勝利もすぐ見えないかもしれません。しかし、エステルたちが勝利を信じて備えたように、私たちも神様を信頼し続けていきましょう。
『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』
(詩篇103:3〜5) (文責:朋子)